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デリュージョン・ストリート 12(妄想ノート)

妄想の破片

〈魂の形態〉勾玉、渦、光の渦。頭部の形プラス尻尾という構成。首から下の肉体は尾部の発達したもの、末端。光の渦は無を中心に持つエネルギーの形、ブラックホール。渦の動的な姿を示す尻尾、精子。卵子は受け容れる器。精子というエネルギーが卵子という器の中で充実し、外枠を押し広げて成長する。/宇宙の卵殻の中で散在している光の渦が、受胎空間の中を移動する。一箇の光の渦が閉じられた宇宙であることから、この移動は〈横切る〉という飛躍。/人間の形は女性的だが、繋がるべき生命力の形は男性的……。/〈生命装置〉のradicalな発現は、(1)生命の実現、つまり細胞レベルでの分裂・増殖の正のベクトル、(2)生命活動の抑制という負のベクトルに代表される。生命活動とはこの正−負の機能を同時に支えることに他ならない。生命遺伝子〈オンコジン〉。生命の正−負の機能の原因として、この物質が装置されている。/〈ガンという疾病〉は生体に異物を対峙させるという、(2)の一方法。オンコジンは、発ガン因子(イニシエーター)をガン化の記憶を呼びさますものとして、発ガン促進因子(プロモーター)をその記憶の連続性を保証するものとして、日常的に用意し、これをコントロールする。/ガン自体は純粋に異細胞の〈生命活動〉であり、宿主細胞は異細胞の側から見る限り、エネルギー源としての生体の維持に不可欠の要件である。だが、〈ガン細胞〉の自己目的はガン細胞自身の構築性にあるわけではなく、負のベクトルに対する生命活動の正方向という抑制を解放することにあるので、宿主細胞の維持は過渡的なものである(初期ガン以前の段階、ガン細胞の数が数十万箇に達して疾病として活性化するまでは、逆に相互の維持作用が必要であること。異細胞の存在がγインターフェロンなどの免疫物質の誘起によって、活性化に至らない疾病因を排除すること)。/この過渡性、オンコジンの正−負の領界における指令の傾きに関与する自然年齢。ガンの疾病化の始まりを示す中心帯。近代までの生命時間、五十前後と対応。/〈ガン〉という概念。は(2)による負のベクトルに決定づけられているが、それはあくまで生体の側からの見方で、〈ガンという生体〉の側からは生命活動という物質の構築性を否定し、宿主を無に帰するばかりか、自ら死の淵へダイビングする〈反世界の生命活動〉という〈正方向性〉を有している。オンコジンが、冷徹で機械的で、あくまで一神的な〈世界の調和と統制〉というバランス機構であるのに対して、ガン自体の持つ死生観には、生命装置を媒介にして支配された世界性を超越する構造があるようだ。死を自己目的とした反世界。/とはいえ、ガン化は用意されたものであって、それ自体、反世界的ではない。個体としての生命とは相容れることはないが、生命思想としては以毒制毒の効として世界の奴隷である。/〈ガン治療〉は、妄想的にはこの異細胞に構築性を持たせ、そのことによってガン化細胞の〈生体としての維持機能〉を産み出し、そのための宿主との共存関係を作らせるか、宿主を奪取して別の生体として立つか、あるいは宿主の側が正常細胞を捨ててガン細胞による構築物として組み換わるかすればよいのだが、この構築性そのものが生命という抑制を解放するという形而上的レベルにあるのだから問題にならない。/鈍麻。正−負のベクトルの傾きを支配するオンコジンを、麻痺、睡り、正方向の活性化、肉体時間の混乱に導いて、生命装置を弛緩させること。オンコジンの正方向のベクトルの力を抑制することによって、バランス全体の振幅を小さくすること。生命エネルギーの溢れた正常細胞に対する抗体を産生させて、生命装置の機能を低下させ、相対的にガン化の細胞活動を衰弱させる。/生命が装置として存在するとは……。/〈妄想神学〉物質的現実は一神による全体としての一宇宙の、多神的な重なりである。またその現実と肉体は全体としての一神の現れにすぎず、神の次元によって自由に改変できる(物質及び現実とは存在のモナドにすぎなく、始まりであり、結果ではなく、他の何の存在にも及ばない)。現実世界は、そこの神の意図による物質の規範にのっとっているが、ただそれだけのことで、実は簡単に(肉性を恐れなければ)くつがえすことができる。/精神及び神、霊などの観念的宇宙は多神的に存在しており、正−邪、善−悪などはそれぞれの宇宙的対立の形であって、意味をなさない。基本的には一神の全体に収斂されるものだが、物質世界などはある一神の現れにすぎず、ただその現れは他の神の介入も含め、平板になっているとは限らない。神の中での位階はそのことを物語る。つまり、その支配的な一神の宇宙の構成部分は収斂されるものだが、霊的存在にしたところで、必ずしもその一神の確定的な構成部分ではない。/このように一宇宙の創造が一神にかかるということは、宇宙が無限の神の数だけ存在するということであり、それは存在を蔽う全体とは異なる、次元の低いヒエラルヒーである。/さらに核となり、高い位階にあり、全体を蔽うのは〈純粋思考〉である。純粋思考の次元によれば、神、宇宙、全体性は意味を持たなくなる。神的構築物の内部で、あたかも外部にあるように批判できる霊的存在及び多神的宇宙という次元の構造が、その外部にある、さらに強い本源的な存在を示している。また、純粋思考が精神的領野及び肉体的領野に現われ、それぞれの領野の存在がその一部分でしかないことが明白になったとしても、その一部分の側から元の全体の純粋思考を否定しさるとき、創造的な〈新たな純粋思考〉が誕生する。現実を越え、精神、神秘、宇宙の次元を越え、さらに核となる純粋思考を否定することによって生まれる新たな純粋思考こそが、あらゆる無限の姿を指し示している。/まず、未来が先にある。実は時間は逆転した意味を持ち、未来の必要から過去が作られる。生命の流れは過去に向かっているのである。それゆえ、新しく生まれるのは過去であって、未来は生まれることはない。時間とはただ点在し、場所ごとに濃淡を持つにすぎない。/時間の存在とは、その宇宙を構成する物質が何ら意味を持たないことを隠蔽するために、ある方向に流れていると錯覚させる技術である。その証拠に、時間が存在していないと規定すると、物質の存在はその意味をなくし、その宇宙の現実というものがあっというまに崩壊する。つまり地上的現実とは、それを創造した神にとってもただの実験的な場で、そこでは時間という道具を試しているのだ。他の神の介入の痕跡はあるにしても、地球は時間というつまらぬものの実験場である。物質とは時間の凝縮されたにすぎぬもの。/純粋思考は、物質的な死が何の意味も、まして恐れも必要としないことを明らかにする。また、精神、観念、神秘、神とそのヒエラルヒーをつねに批判し、否定する立場にあるから、それぞれのどの次元でも何ものにも収斂されず、どの神とも対等かそれ以上の存在である。なぜなら、純粋思考はより本源的な創造の場面だからだ。/〈妄想〉は(1)現れはどのようなものであれ、ほんのわずかな一面であること、(2)前項を自らの多面性によって証明できること、(3)その多面性が増殖的であり、創造的エネルギーを持っていること、(4)そのことによって宇宙の構造を示すこと、(5)そこで到達した己れの全体をも超越することによって、一気に純粋思考の誕生に至ることが可能である。

(初出 詩誌『緑字生ズ』第5号、1985.12刊)




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